なぜ「活動的な瞑想」なのか?



 愛する和尚、

 私が瞑想キャンプに参加するのはこれが初めてですが、活動的な瞑想法がなぜ必要なのかを説明していただけますか。

 人間のマインドは努力志向、行動志向であり、活動することにとりつかれている。――なぜなら活動的であればあるほどエゴは満たされ、“私”という言葉も言えるからだ。すべての活動は基本的に、あなたの利己的な人格の糧となる。

 瞑想は努力することでも、活動することでもない。むしろ、それは深い明け渡しだ。瞑想とは無為の中にあることだ。根本的にはただ在ること、それが瞑想だ。――何もせず、何も欲することなく、どこかへたどりつこうと望むことなく、ただ、今ここに在ること、単に今ここにあること、それこそ私が瞑想と呼ぶものだ。だが、それを想像するのはとてもむずかしい。それについて思い巡らすことでさえ容易ではない。マインドは、努力なしのものを何一つ想像することができない。まさにマインドという言語自体、その骨組自体、その構造自体が何かをする、何かを成し遂げる、どこかに向かうといった努力に基づいている。

 マインドとは実に深刻なもの、そして瞑想とはまったく深刻さのないものだ。こんなことを言えば、あなたは当惑するかもしれない。何しろ瞑想については、とても深刻に語られ続けているからだ。しかし、瞑想は深刻なものではない。それはまさに遊びのようなものだ。なんの深刻さもない。真摯ではあっても、深刻ではない。それは何か仕事のようなものではない。それはむしろ遊びのようなものだ。遊びは活動ではない。たとえそれが活動的であったとしても、それは活動ではない。ただひたすら喜びであるもの、それが遊びだ。その行為は何かへと向かうものではない。それは動機づけられたものではない。むしろ、それはただ純粋な、あふれるエネルギーだ。

 しかしこれは、たやすいことではない。なぜなら私たちは、あまりに活動的なものの中に巻き込まれているからだ。私たちはあまりにもひっきりなしに動き回っているので、活動することが強迫観念となって深く根づくまでになってしまった。眠っている間でさえ、活動的だ。リラックスしようと思っている時でさえ、活動的だ。リラックスまでもが活動にされてしまい、人々はくつろぐために努力している。これは、ばかげている! しかしロボットのようなマインドの習癖のために、そうなってしまうのだ。

 ではどうすればいいのか? 無為のみが、人をその内なる中心へと導いていくことができる。しかしどうやったら無為でいられるのかをマインドで考えることはできない。だったらどうすればいいのか? 

 私はある方法を考案した。そしてその方法とは、活動が完全に停止するその極限まで活動的であることだ。たえず活動的であろうとするマインドがその人の組織形態から投げ出されてしまうほどに、狂ったように活動的になることだ。その深い浄化が終わった時初めて、あなたは非活動の中へと落ちていき、そして努力というもののない世界を垣間見ることができる。

 ひと度この世界を知れば、あなたは何の努力もなく、その中に入っていくことができるようになる。一度その感覚――いかにして何をすることもなく、ただ、今ここに在るか――をつかめば、どの瞬間にでもその中に入っていくことができ、どこにいようとその中に留まっていることができる。究極において人は、外側で活動的でありながらも、内側の奥深くで無為でいられるようになる。だが始まりにおいては、まさに逆説的なことをしなくてはならない。その逆説とはこうだ。まず、あなたは活動的にならなくてはならない。狂ったかのように、暴力的なまでに活動的にならなくてはならない。すべての物事が放たれ、あなたの抑圧が解放されるように。

 あなたはとてもたくさんの物事を抑圧してきた。あなたはまさに抑圧のかたまりのようだ。これらの抑圧は常に無意識な次元においてあなたに働きかけ、絶えることなくあなたをかき乱し、あなたを毒してきた。それが解き放たれぬ限り、あなたは自分自身にくつろぐことなどできない。そしてあなたが自分自身の内にくつろげないのなら、どうやって宇宙の中にくつろぐことができるというのだろう? 全体の中に深くくつろいでいない限り、あなたは宗教とは何かを味わってはいない。

 とても長い間、何生にも渡ってあなたはずっと自分自身と結びついたことがなかった。あなたは自分自身からかけ離れ、自分自身とは見も知らぬ存在になってしまった――この抑圧的態度ゆえに。あなたはあらゆるものを抑圧し続ける。心の底から叫んだこともなければ、笑ったこともなく、本当に泣いたこともない。あなたが本当にその深みから行なったことは何もない。あなたのすべてが巻き込まれてしまうようなことを行なったためしはない。

 奥深いところで、あなたは狂気をかき集めつづけている。いつ何時でもそれは爆発しかねない。誰一人として正常な人はおらず、いわゆる正気と呼ばれているもののまさにその背後には、異常者が、狂人が潜んでいる。その異常な、抑圧された無意識はあなたの人生をかき乱し続ける火山だ。それはあなたの理解を妨げ、そしてすべての物事をじゃまし続ける。もしあなたが自分自身の内にくつろぎたいなら、それは毒であり、取り出されなくてはならない。それが最初の一歩として成されるべきことだ。そうして初めてあなたは宇宙の中にくつろぐことができる。

 そしてわずか一瞬であれ、一度でも宇宙が我が家となれば人は宗教的になる。それは変容だ。そうなれば、あなたが我が家以外のところにいることなど決してないだろう。どんなところへ行こうと、どんな人になろうと、どんな事をしようとも、あなたは依然として我が家でくつろいでいることだろう。しかしこの感覚は、あなたの内側に積もっているあらゆるつまらぬ物事が解き放たれ、投げ出された時にのみ訪れる。私たちは、そのつまらないものを保持し続ける。それが手から離れていかないように常に警戒し、絶えずそれを保守している。

 あなたがもしこの瞑想キャンプの間でさえも、蓄積されてきたそのつまらない物事をずっと温存し続けるのなら、なにも起こりはしないだろう。しかし、あなたに自分の組織体系の中に抑圧されているものを何であろうと表出する準備があれば、様々な事が可能となるだろう。あなたはここに全く新しい人間として生きることができ、新しい存在があなたの中に生まれるだろう。しかしそれにはあなたが大胆に、あますことなく表現し、真正でそして遊び心に満ちていることが必要だ。

 これから皆で、朝、昼、夜と3つの瞑想をすることになるが、あなた方が心の準備ができるよう、朝の瞑想について少し話しておこう。

 朝の瞑想はある手法にそって狂う、狂気の瞑想だ。何であろうと、あなたの中に抑圧されているものは引きずり出されなくてはならない。いったんそれが引きずり出されれば、あなたはそれから自由になり、その重荷から解放される。私が見たところ、あなた方はあまりに重荷を背負いすぎている。みんながみんな、頭の上にヒマラヤ山脈を持ち運んでいる。頭にこのような重しがあっては、一インチでさえも動けないのは当然だ。それは投げ捨ててしまうことだ! それこそ私が言う大胆さというものだ。だから、勇敢でありなさい。

 朝の瞑想には四つの段階がある。第一段階は十分間の混沌とした呼吸だ。いいかね“混沌と”だ。いかなる組織だてられた方法も用いられるべきではない。ただただ、混沌とした呼吸だ。吸っては、吐く。呼吸以外のことはすべて忘れなさい。ハンマーで打ちつけるかのように速く深く、そして混沌とした呼吸を用いなさい。そして、あなたがふいごになったかのごとく呼吸をしなさい――吸っては吐きながら。これが奇跡をひき起こす。それはあなたの抑圧された数々の感情を解き放つ助けとなる。それらを抑圧する手助けをしてきたのは呼吸だ。だから、それを解き放つことができるのも呼吸だけなのだ。

 あなたは気づいていないかもしれないが、あなたが抑圧すればするほど、あなたの呼吸は浅くなる。抑圧されていると、男性も女性も深い呼吸ができなくなる。その人は恐れを持っていてその呼吸も浅く、へそまで届くことがない。息をとり入れては吐き出すが、それがその人の実存のまさに根源へと至ることは決してない。その人は根源を恐れ、全一に在ることを恐れる。なぜなら、もし全一であれば、その人は自分の抑制を解き放たねばならなくなるからだ。今までしたことのないようなふるまいをしなくてはならないし、自分で自分をコントロールできなくなるだろう。その人は存在という深い河に投げ込まれ、存在がその人をコントロールしていくことだろう。その人には存在をコントロールすることなどできないのだから――。私たちは自分の抑制のきく範囲で呼吸が収まっているように制御しようとする。

 子供を見てごらん。彼らは違うふうに呼吸をしている。その理由は子供はまだ教育されてもいないし、文明に染まってもいないからだ。けれども社会全体は子供を教化しようと働きかけており、そして子供がいったん社会を意識し始めると、その呼吸は変わってしまう。

 ある特別な状況のもとで呼吸は変わる。子供が自分の性を意識しだすと、――あるいは社会や両親、その家族がその子供の性に気づかせると――呼吸が変わる。その呼吸は浅くなる。なぜなら深い呼吸は内側からあなたの性中枢をマッサージすることになるからだ。それは性中枢を刺激する。呼吸は深く届くようになると、性エネルギーが動きだすのを助ける。社会、宗教、またいわゆる宗教団体なるもの、それらはすべてセックスを恐れている。家族、文化、文明もすべてセックスを恐れている。子供はいったん自分の性的な部分を咎められると、自然に呼吸することは二度となくなる。その呼吸は浅くなる。というのも、息が深く入っていくと、性中枢が刺激されるからだ。その子供は、呼吸がそれほど深くまで届かないようにしてしまう。だから皆呼吸が浅いのだ。

 だからこの技法ではまず最初の段階で、社会が創り出してきた状況とは逆の状況を創り出す。あなたは性中枢が内側から打ちつけられるように、深い呼吸をしなくてはならない。それも、そこからエネルギーが解き放たれるよう力の限り打ちつけていかなくてはならない。

 性中枢を打つには二つの方法があるが、それは外側から打つことができる。異性に魅了されると、性中枢は外側から打たれる。その時そのエネルギーは外に流れ出す。だが、もし深い呼吸をして内側からその中枢を打つなら、そのエネルギーは内側を動いていく――その同じエネルギーがだ。セックスはその両方であり、外に向かうこともできれば内に向かっていくこともできる。降りていくこともできるし、上昇することもできる。二つの道がそこに開かれている。こちらの方かあちらの方か、どちらかにそのエネルギーは解き放たれなくてはならない。内側には性エネルギーが動いていくことができる、系路が存在している。私たちはそれを“クンダリーニ”と呼んできた。クンダリーニとは内側を動く性エネルギーのことにほかならない。

 だから十分間あなたは文明と、浅い呼吸と戦わねばならない。混沌とした呼吸だ! この効果はまだもう一つ別の面にも表れる。それは、あなたの肉体のもつエネルギー、あなたの肉体のもつ電気を解き放つ。これが生電気として知られるものだ。いったん生電気が肉体に解き放たれると、超越――肉体を超越していくための媒体として用いることが可能となる。

 私たちは肉体を恐れている。だから皆、肉体が本当に生き生きとしたものになるのが許せない。私たちはそれを半死状態にしてきた。それが半分死んでいればコントロールもできるが、完全に生きた状態ではコントロールできなくなる。

 皆それが怖いのだ。マインドは常に恐れている。そしてその恐れはただひとつ、もしマインドがコントロールできなくなったら一体どうなる? というものだ。マインドがコントロールできるのは、死んだ肉体または半死状態の肉体だけだ。肉体が生気に満ち溢れていると、マインドは恐がるようになる。そのエネルギーの物凄さに、マインドは投げ出されてしまうからだ。

 この十分間の混沌とした呼吸は、あなたの肉体エネルギーを解き放つ手助けをする。体の全細胞が活気づき、踊り始める。そしてこれらの細胞の内なるダンスが始まると、自分もまたダンスしているような感覚を覚えるだろう。あなたの肉体全体が踊り、跳びはね始める。それを許すことだ。これこそ存在の大河に入っていく方法だ。

 第二段階の十分間であなたはあらゆる狂気を表現し尽くさなくてはならない。恥ずかしがることなく。皆ここに、恥ずかしがるために集まってきているのではないのだから。他の人を怖れてはいけない。自分一人だけがここにいると思いなさい。これは孤独の道、独りで旅していかなくてはならない道だ。他にも多勢の人々が瞑想をし、皆が瞑想をしていることだろう。だが、あなたは自分自身にだけ関わっているべきだ。他人を気にしていては、自分のいる所から少しも進むこともできず、ここでの時間もすべて無駄にしてしまうだろう。だから他人にはかまわないこと。完全に自分自身からずっと気をそらさずにいるのだ。

 そして覚えておくように。あなたは内側にたくさんの狂気を抱えている。すでにそのことは自分でわかっている。だからこそ、あなたはそんなに恐がっているのだ。それを手放してごらん! 叫びたければ叫び、泣きたければ泣き、跳びまわりたければ跳び、踊りたければ踊ることだ。ただ子供のように――自分の体と戯れ、跳び跳ね、踊り、叫んで――したければそうすればいい!

 そして遊びに満ちてそれをやりなさい。そのことに深刻になってはいけない。深刻になっては、完全にそれから解き放たれることはできない。戯れるのだ。自分から出てくる狂気を楽しみなさい。それに手を貸し、楽しみ、それと協力し合いなさい。狂気を超えていくことに本当に興味があるなら、これこそがその道だ。狂気が解き放たれた時には重荷が降り、自分に重みがなくなったように感じるだろう。そしてあたかも自分の子供時代が戻ってきたかのような、何とも言えない新鮮な何かが自分の中に舞い込んでくるのを感じるだろう。あなたは再び子供になる。新しく生まれ変わり、新鮮だ。あなたがさらに遠くまで進んで行くのなら、この新鮮さ、この無邪気さはまさに本質となる。

 第三段階では、真言として「フゥッ」という響きを用いる。大声で力の限り、あたかも全人生が賭かっているかのようにこの音に全エネルギーを注ぎ、「フゥッフゥッフゥッ」と言わなければならない。十分間「フゥッフゥッ!」と叫び続け、大声を上げ続けなければならない。だがこの「フゥッ」は、どんな働きをするのだろうか。

 それは二つの事をする。フゥッと叫べば、息は完全に吐き出される。叫ぶ声は大きければ大きいほど良い。自分の息を完全に出し切ってしまうよう、この音と共に息を吐き出すのだ。これがあなたの内側にすき間を創る。そのすき間があれば、性エネルギーは上昇していくことができる。このフゥッは性エネルギーが上昇するのを助けるためのものだ。フゥッと言うと、性中枢は押し縮められ、息が外に吐き出される。すると内側のまさに性中枢のすぐ間近に、一つの空間が生まれる。そのすき間、その空洞の中で、性エネルギーが上昇することが可能になる。

 これらの三つの段階は、あとに何も残らないほどのとてつもないエネルギーと気迫をもってなされる。何も抑えることなく、あなたは完全にその中に没入している。そして始めから三十分たち、あなたの狂気が解き放たれ、あなたのエネルギーが動いているのが感じられたら、突然私は“ストップ!”と言うだろう。その時には、そのままで完全に止まらなくてはならない。それからは動いてはいけない。どんなこともしないように。手を上に上げていようが、跳んでいようが、私が「ストップ!」と呼びかけるのを聞いたら、その時、その場で止まるように。私の声を聞いた瞬間、あたかも、自分がもういなくなってしまったかのように、まるで石になってしまったかのように、石像になってしまったかのように感じなさい。ある人は立っているだろうし、ある人は座って、また、ある人は横たわっていることだろう。動くこともなく、叫ぶこともなく。どんな音も、どんな動きもあってはいけない。突然、皆がすべて死んでしまったかのように在りなさい。たとえあなたが倒れようと……たとえあなたが立っていてその姿勢をそのまま保ち続けられないようなものであっても、どんな体の調整もとろうとしてはならない。ただ体が倒れるがままにさせておきなさい。けれども体が倒れるのに手を貸してはいけない。どんな調整もしないように。いかなるやり方であろうと、体の状態を変えてはいけない。

 この停止することについて深く理解すること、これは絶対に必要なことだ。なぜならあなたは自分をだますことがあり得るからだ。姿勢が困難で苦痛で、窮屈だと感じると、マインドはあなたをだまそうとする。私がそこで見ていないと、あなたは姿勢をちょっとくらい変えて、楽になろうと考えてしまう。だが、それでは要点を逃してしまっている。

 どんな事もしてはいけない。私が「ストップ!」と言ったら直ちにすべての動きを止めなさい。すると何が起こるのだろう? この突然の停止で、あなたは中心へと投げこまれる。たった今まで、気違いじみた行為の中で、あなたは竜巻のように動いていた。突然私が「ストップ!」という。すべてが止まる。あなたは中心に投げこまれ、観察する者となる。しかし、ただちに止まらなければならない。少しでも何かをしようものなら、あなたはその瞬間を逃してしまう。

 何もしてはいけない。ほんのわずかに動いたために、あなたは要点をまるごと逃してしまうこともある。私が止まるように叫ぶのが聞こえたら、止まりなさい! たとえ何が起ころうとも! 体が倒れることもあるだろう。倒れるにまかせなさい。だがそれに手を貸してはいけない。意識的には、あなたはどんなこともしないことだ。

 十分間、この石のような状態でいることだ。この十分は新しい体験となることだろう。あなたは新しい内なる空間へと入っていくことだろう。それはあなたを超えた何か、あなたの知らなかった何かだ。そしてそれは一瞥しただけであなたを至福で満たしてしまうだろう。この十分間――この石のような死んだ状態のなかで、初めてあなたは本当に生きていることだろう。そしてあなたは観察する者、自分の肉体の観照者になる。

 この観照こそが瞑想だ。この観照のなかで、あなたはあなたを満たしている光を、あなたのなかに入りくる至福を、あらゆるところに存在している神聖なるものを感じることだろう。内側にも、外側にも、いたるところに。けれども、あなたはただあらゆるもの――光、至福、神性の現存――の観照者でいることだ。ただ、観照者で。

和尚 The New Alchemy: To Turn You On

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