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瞑想のための自己催眠療法 ヒプノシスの神秘とは、あなたを無意識(unconscious)の領域へと誘うことだ。そうすれば、無意識の領域にどんなことの種でも蒔くことができる。そしてそれは育ち花開く。開花は意識(conscious)のある状態の中で起こる。しかし、その根は無意識の領域に残る。 わたしの考えでは、ヒプノシスはミステリースクールのもっとも重要なもののひとつになるだろう。まったく簡単な方法で、ほんの少しの信頼と無垢を必要とするだけで、あなたの人生に奇跡的な変化をもたらす。そして、日常生活の中だけではなく、それはゆっくりとあなたの瞑想の道になっていくことだろう。 あなたは瞑想する。しかし、それはなかなかうまくいかない。見守るということはむずかしい・・・。思考が混ざり合い、見守ることを忘れてしまう。そして、「見守っていようとしていたのに、考えていた。」と、後で思い出す。ヒプノシスがあなたを助けてくれるだろう。それは見守る人と思考とを分けてくれるものだ。 わたしには、精神的成長のために、ヒプノシスよりもっと大切なものがあるとは思えない。 (Beyond Psychology, Chapter44,Q2.) ■ヒプノシス、その作用 ヒプノシスを与える側の人は、それを通じてあなたに届くことができる。しかし、それはあなたの意識的な精神(CONSCIOUS MIND)を通してではない。なぜなら、意識的な精神がすることは何であれ、努力と緊張がある。そして、それが無意識 (UNCONSCIOUS MIND)を表面化することを邪魔している。意識的な精神は、無意識が表面に浮かび上がるために完全にリラックスしなければならない。ヒプノシスは、誰かそれを知っている人と始めた方がいいだろう。 ■セルフヒプノシスの重要性 あなたが受けた、ヒプノシスの何度目かのセッションの後、ヒプノシスを与える側の人は、次の段階へ移る。それは、セルフヒプノシスだ。あなたがヒプノシスをされている状態の時に、与える側の人は「これからあなたは自分自身で自分にヒプノシスをすることができる。あなたはわたしを必要としない。あなたは他の誰も必要としない。」と言う。 それは、与える側の人が精神的奴隷をつくるために、ヒプノシスを利用しないということだ。彼はそれを使って、あなたが今までに一度も経験したことがない、多くの精神的自由をあなたに与えるだろう。そして、あなたが、自分自身にヒプノシスを与えられるようになる日は素晴しい。それは貴重なものが獲得される日だ。そうしたら、ヒプノシスはあなたに奇跡を与える。今までいつも自分で変えたいと思いながら、変えようとすればするほどむずかしくなってしまったようなものごとを変えることができる。 ■何故、誰かそれを知っている人と一緒に始めるのでしょうか? あなたは、自分自身にヒプノシスをすることはできる。しかしそれがむずかしいのは、誰も自分自身を信頼してないからだ。 誰でも自分がどれだけあてにならないかということを知っている。とても嘘つきで、言う事とすることとは別だ。例えば、あなたは明日の朝早く起きると決心する。それを決断している時・・・まさにその時、あなたにはそれが起こらないことがわかっている。 そういう自分をあなたは信頼することができない。それが問題だ。だから、誰か他の人が必要になる。誰かあなたが信頼できる人が・・・。誰か、その手の中に、あなたがどんな恐れも抱かずに自分自身を委ねられる人が・・・。 (Hypnosis and Meditation) ■瞑想とヒプノシスの関係 そして、瞑想とヒプノシスの関係とは? それはただ、こういうことだ。ヒプノシスはあなたが身体に刺さったと思い込んでいる、実際にはそこにない棘を抜くためのものだ。 例えば、わたしがあなたに「身体がリラックスしていると感じなさい。」という時、それはヒプノシスだ。実際、あなた自身は身体がリラックスできないと思い込んでいる。その思い込みを消し去る暗示を与えるために、ヒプノシスは必要だ。そうでなければそれは必要ない。あなたの間違った思い込みがなければ・・・。たった一度でも体がリラックスしていると感じれば、身体はリラックスする。私があなたに与える言葉は、本当はあなたの身体をリラックスさせるためのものではなく、体がリラックスできないというあなたの思い込みを消し去るためのものだ。これは、体はリラックスしているという逆の思い込みがあなたの中に生まれなければできない。あなたの偽りの概念は、この偽りの概念によって消えるだろう。そして体がリラックスすると、リラックスしたことがわかる。くつろぎは、体のごく自然な質だ。しかし、あなたは自分自身を多くの緊張でいっぱいにしてしまった・・・。今度はそこから抜け出すために、何かをしなければならない。 ここまでがヒプノシスで進める範囲だ。体がリラックスしていると感じ始めたら、呼吸がリラックスする。思考は穏やかになる。これがヒプノシスだ。しかし、ただ、この地点までだ。その後にやってくるものが瞑想だ。この地点までは瞑想ではない。瞑想はこの後に始まる。あなたが、意識がある状態のとき、内側で目覚めている時。体がリラックスしている、呼吸がリラックスしている、思考が止まったり、あるいはまだ動いたりしていると見守り始める時・・・。ただ、見守っている時・・・。この見ているということ、見守っているというこの状態が瞑想だ。それ以前のことは何であれ、ただのヒプノシスだ。 つまり、ヒプノシスというものはつくられた眠りだ。わたしたちは、眠くない時眠りを来させようとする。努力して眠ろうとする。眠る準備をし、委ねるという手放しの状態の中へと移っていくと、眠りもまたやって来る。しかし、瞑想とヒプノシスは全く同じものではない。どうかこのことを理解してほしい。あなたが、わたしの言葉に従っていると感じているかぎり、それはヒプノシスだ。ひとたび私の言葉が止まり、目覚め始めるのを感じたら、それは瞑想だ。瞑想は見守ることの到来とともに始まる。 ■私達はすでにヒプノシスの中にいる ヒプノシスは、必要とされている。なぜなら、あなたは自分自身をヒプノシスの裏側のような位置に置いてしまっているからだ。科学的観点から言うと、実際それはヒプノシスではない。それはヒプノシスを壊すことだ。わたしたちはすでにヒプノシスをされた状態にある。もちろん、わたしたちはどのようにわたしたちがヒプノシスをされたのか、そしてこのような状態になるために、わたしたちがどのような方法を使ったのか気付いていない。わたしたちは人生のほとんどをヒプノシスの影響下で過ごしている。そして、わたしたちがヒプノシスを受けようとする時、わたしたちは自分自身が何をしようとしているのかわかっていない。そうやって、わたしたちはずっと一生を過ごしている。もしも、このことが明らかになったらヒプノシスは壊れる。そしていったんこのヒプノシスが壊れれば、内側へ入っていくことが可能になる。なぜなら、ヒプノシスは根本的には非現実な世界だからだ。 例えば、誰かが自転車に乗る練習をしているとする。それを練習するために彼は広い道路へ出て行く。その道幅は2mで、その端には距離を示す標石があるとする。たとえ、その人がその広い路上を目隠しして乗ったとしても、その石にぶつかる確率は非常に低い。しかし、彼はまだどうやって自転車に乗るのかを知らない。 彼には道路が目に入らない。彼の目はまず標石に集中する。もしかしたら、標石にぶつかるのでなないかという恐れが彼を捕らえる。もう終わりだ。もしかしたら標石にぶつかるのではないかという恐れが彼を捕えるやいなや、彼はヒプノシスをされた状態に入ってしまう。彼がヒプノシスをされた状態という意味は、彼はもはや道を見ないで、標石だけを見始めたということだ。彼は恐れ、彼の自転車のハンドルは標石に向かって向きを変え始める。 ハンドルが向きを変えれば変えるほど、彼はもっと恐ろしくなる。もちろん、ハンドルは、彼の注意が行く方向へ向く。そして、標石にぶつかることを恐れるために、彼の注意は標石に向かってしまう。そして、彼の視野から道路は消え去り、標石だけが残る。標石にヒプノシスをされている状態になり、彼はそれに引き寄せられてしまう。そして、とうとう標石にぶつかってしまう。 この事実を見て、聡明な人は誰でも、どのようにしてそんな広い道路の上で、彼が標石にぶつかったのかと不思議に思うだろう。どうして、彼は標石から離れていることができなかったのかと。明らかに彼はヒプノシスをされた状態に陥ったのだ。彼が標石に集中したのは、標石の上に乗り上げるということから自分を救うためだった。そして、そのことで標石以外の何も見えないようになってしまった。彼の注意が標石に固定してしまった時、彼の手は自動的に自転車の向きを変えた。なぜなら、体はあなたの注意に従うからだ。恐れれば恐れるほど、より標石に注意を集中してしまう。彼は標石にヒプノシスをされた状態になり、恐怖が彼をその標石へ引き寄せてしまった。そして、とうとうそれにぶつかってしまったのだ。 ■ヒプノシスの原理 人生の中で、わたしたちはむしろ避けたいような間違いを犯してしまうことがよくある。わたしたちがそのような事柄によってヒプノシスをされた状態になってしまうためだ。例えば、ある人は平安な気持ちを失って、怒ることを恐れている。こういう場合、その人は自分が24時間のうち24回怒っていることを自覚する。怒ることを恐れれば恐れるほど、怒りにヒプノシスされた状態になる。そうなるとその人は、24時間ずっと怒っていることの言い訳を探すようになる。 性的に興奮を感じることの不安感から、美しい女性を見ることを恐れる男性は24時間ずっと美しい女性を目で追いかけてしまう。少しずつ、醜い女性さえ彼にとっては美しく見えてくる。そして、たとえ男性であろうと、彼にとっては女性のように見え始めてくる。もし、彼が長い髪のサドゥー(修業者)を後ろから見たら、彼はそれが男なのか女なのか、どちらか確かめるだろう。結果として彼は、写真とかポスターの中の女性に魅力を感じ、ヒプノシスをされた状態になり始める。彼はギータやコーランのページの間に裸の女性の写真を隠し持ち始める。どうして、単なる線とか色によって、ヒプノシスをされてしまったのか、不思議に思うことさえなく、それを見つめるようになる。彼はいつも自分を女性から救いたいと思っていたのに、今は女性を恐れている。もう、彼に見えるものは女性ばかりだ。寺へ行こうが、モスクへ行こうが、どこへ行こうが彼には女性しか見えない。これもまたヒプノシスだ。 セックスに反対している社会は、結果的に性的になる。反セックスの社会は・・・。セックスを非難する社会は、その意識全体が性的だ。なぜなら、まさにそれを批判するそのことによって、ヒプノシスが起こるからだ。そのすべての注意は、セックスに集中する。社会が禁欲について論じるほど、それに対する意識は汚れ、その中に生まれる人々は好色になる。その理由は、あまりにも禁欲を語ることで、性的なことに意識が集中してしまうからだ。これは皆、わたしたちによってつくり出されたヒプノシスだ。そして、それを壊すのはむずかしい。なぜならヒプノシスは何であれ、私たちが壊そうと試みることと共に育つからだ。 ■ヒプノシスを超えて 神は、わたしたちがこのようなやり方でどれだけ多くの種類のヒプノシスをつくりあげたか知っている。そして、今もつくり続けていることを・・・。そしてわたしたちはそれと共に生きている。それは、壊されなければならない。そうすれば、わたしたちは目覚めることができる。しかし、この虚構の蜘蛛の巣のようなものをすっかり取り払うためには、虚構の手段を見つける必要がある。 ある意味で、全てのサダナ(修行)、精神修養のすべては、わたしたちのまわりから、虚構を取り去るための手段にすぎない。だから、すべてのサダナは虚構だ。神にたどり着くのを助けるために、世界中で生み出された方法は虚構だ。なぜなら、わたしたちは一度でも神から離れたことはないからだ。ただ、思考の中でだけ、わたしたちは神から離れている。 それは、まるで誰かかがドワルカで眠っていて、カルカッタにいる夢を見ているようなものだ。そして、夢の中で彼は心配し始める。彼の妻が病気で、彼はカルカッタにいる。彼はドワルカへ帰らなければならない。彼は人々に訊いてまわる・・・。列車の時刻表をチェックして、飛行機のフライトについて尋ねて、できるだけ早くドワルカへ帰れるように。しかし、どうやってドワルカへたどり着くかについての、彼が受け取るどんな提案も間違っている。それは彼をトラブルに巻き込むだけだ。なぜなら、始めから彼はカルカッタにいなかったからだ。彼は決してカルカッタへなど行かなかった。それはただの夢、ヒプノシスにすぎない。誰かが彼にドワルカへ帰るためのどんな方法を教えたとしても、それは彼をトラブルに巻き込むだけだ。 どんな道にも何の意味もない。すべての道は虚構だ。たとえ、彼がドワルカへ戻ったとしても、彼が選択した道は虚構だ。彼は、そこへ帰る正しい道を見つけることはできない。なぜなら、そこにはまったく道などないからだ。第一、始めから彼は決してカルカッタへなど行かなかったからだ。彼にとって、帰る道を探すとはどういう意味だろう?彼がドワルカへ乗って行く列車はカルカッタと同じように虚構だ。もし、彼がホウラッシュ駅へ行き、切符を買い、ドワルカ行きの列車に乗ったとする・・・。そのすべては虚構だ。彼が帰って来る時に通り過ぎるすべての駅も虚構だ。そして、彼はドワルカに到着して、幸せにも目を覚ます。しかし、彼はどこへも行かなかったことに気がついて驚く。彼がその間ずっと始めから、彼のベッドにいたことを・・・。それでは彼はどのようにして帰って来たのだろう?彼が行ったことも、帰宅したことも、虚構だったのだ・・・。 誰も、神から離れたことがない。それは人にはできないのだ。なぜなら、あらゆる所に神はいるからだ。人は神から離れることはできない。だから、行くという事のすべてが虚構だ。帰るということのすべてが虚構だ。しかし、わたしたちはすでに想像上の旅に出発してしまったので、戻らなければならないだろう。他に道はない。わたしたちは帰る方法を見つけなければならない。しかし、いったんあなたが戻れば、すべての方法が虚構だったことに気がつく。すべてのサダナは虚構だったと。サダナは、わたしたちを夢から戻すために必要だったのだと。一度、わたしたちがこれを理解したら、多分それ以上何もする必要はないだろう。そして、あなたは突然、自分が戻ってきたことに気が付く。しかし、あなたはすでにカルカッタにいると思い込んでいるので、これを理解するのはむずかしい。あなたは言うだろう「あなたが言っていることは正しい。でも、わたしはすでにカルカッタにいる。帰る方法を教えてくれ!」と。 (And Now And Here, Capter4, Returning to the Source, Q2.) ■別の友達が尋ねています。「瞑想と自己催眠療法(AUTOHYPNOSIS)は同じものですか?」 見守ることから離れているヒプノシスは無意識になる。もし、あなたが、ヒプノシスだけを使ったら、あなたは無意識になる。そして、もしあなたがヒプノシスと共に見守るということを利用したら、目覚めるだろう。だから、その二つの違いは大きい。しかしそのやり方はとてもよく似ている。 最後になって、初めてその二つは別々に分かれる。 (In Search of the Miraculous ,Vol.1,Chapter 07,Q7) ◆ヒプノシス体験者の話 ●こちら |
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